淀川河道とワンド群の形成と変遷

Formation of the Channel and

the Wando in the Yodo River


綾 史郎* 斎藤 あずさ** 福永 康彦# 西谷 大輔##

Shirou AYA, Azusa SAITO, Yasuhiko FUKUNAGA, Daisuke NISHITANI

 

*   大阪工業大学工学部土木工学科 教授 (〒535ー8585 大阪市旭区大宮5-16-1、aya@civil.oit.ac.jp) 

**  新技研コンサルタント水工設計部 (〒577ー0034 東大阪市御厨南2丁目2-6、azuki@pop12.odn.ne.jp)

#   近畿技術コンサルタント河川第2部 (〒540ー0031 大阪市中央区北浜東2番6号、kingi-c@fb3.so-net.or.jp)
##  大鉄工業株式会社北陸支店 (〒920ー0025 金沢市駅西本町1-14-29)

1.はじめに
 本研究は淀川下流部の河道の変遷を研究したものである。すなわち、国土地理院発行の1887(明治20年)発行の2万分の1地形図から1997年(平成9年)発行の2万5千分の1地形図までの旧版地形図と空中写真、ならびに「淀川百年史」1)、「淀川工事事務所管内図」2)等の資料にまとめられた淀川河川改修工事と出水の歴史を用い、130年間に渡る洪水と河川管理思想の変遷ならびに淀川河道の変遷を止水域やワンド群の形成と消長を中心に見たものである。
対象区間は淀川水系のうち桂川、宇治川、木津川の三川合流部付近より新淀川と大川の分派点毛馬付近までの淀川とし、まず、旧版地図を収集し、地形図に見られる河道地形の変化の概略を調べた。次に、淀川の出水、河川工事、地図作成のための測量が行われた期日等を勘案し、河道の変遷を明瞭に辿ることが出来るようにほぼ20年ごとに辿ることとし、対象淀川流域の2万5千分の1または2万分の1の地形図を貼り合わせて、対象流域全体を含む一枚の地図6葉を作成した。すなわち、1885年(明治18年)から1890年(明治23年)に測量されたもの(図-1(a))、1908年(明治41年)からら1909年(明治42年)に測量されたもの(図-1(b))、1929年(昭和4年)に測量されたもの(図-1(c))、1947年(昭和22年)に測量されたもの(図-1(d))、1970年(昭和45年)に測量されたもの(図-1(e))、さらに1995年(平成7年)から1996年(平成8年)に測量されたもの(図-1(f))である。これらをもとに、淀川河道の識別が容易なように地図上に表現された堤防、水面、水制等をトレースするとともに、参考のために現在の淀川の距離標をもとに6葉すべてにおよその距離標を記入した。
2 地図に見る淀川河道の変遷
2.1 1885年(明治18年)から1890年(明治23年)の淀川
 淀川の近代改修工事は1874年(明治7年)から開始された淀川修築工事に始まる。この頃、淀川の河床は流出する土砂堆積によって上昇し、航路としての機能に障害が生じるとともに、洪水が頻発し、淀川はまさに澱川であり、破堤氾濫が相い次いだ。これを改善するためにオランダ人技師ファンドールン、デレーケ等の指導のもとに淀川修築(・修繕)工事(1874年(明治7年)〜1896年(明治29年))工事が行われた。この工事を図-1(a)に読み取ることができる。河道内には多くの州が存在しており、低水路維持のために建設された水制は越流型、非越流型を併せて約50基を地図上に確認することができた。これらの湾曲内岸側に建設された水制は土砂の堆積を促して蛇行を促進させ、河底勾配わ小さくすることより流速を小さくするのが目的であった(「淀川100年史」(pp.281-282)によれば対象区間内には明治8年から明治14年の間に140基の水制が建設されており、地形図上にすべての水制が記されているわけではないことに注意)。堤防は地図上では10kmから左岸側は27km付近、右岸側は28km付近までは連続堤を確認することができるが、水面と堤防は極めて接近んしている。32kmより上流側では巨椋湖周辺を除いて、両岸に連続堤が見られるが、堤防と水面の間には余裕がありこの間の領域は湿地帯あるいは、低水時には水面上にでるが、洪水時には水面下に没する冠水帯であると推察される。

2.2 1908年(明治41年)から1909年(明治42年)の淀川
 「明治大洪水」(1885年(明治18年)7月)や「琵琶湖大洪水」(1896年(明治29年)8月、9月)等で淀川流域は甚大な被害を受けた。1896年(明治29年)の旧河川法により河川改修の主目標も低水工事から洪水防御を目的とした高水工事へ転換し、淀川では淀川改良工事(1897年(明治30年)〜1910年(明治43年))が行われた。この工事では、1)新淀川の開削、2)大川(旧淀川)と神崎川の締切り、3)庭窪から毛馬にかけての湾曲部の整正、4)新宇治川の開削と合流点の付け替え、5)瀬田川を浚渫と瀬田川洗堰の建設等が行われた。
 図-1(a)、(b)を比較することにより淀川改良工事による河道の変化を検証する。すなわち、4)納所村付近より下流に新宇治川を開削し、木津川と合流させた後、桂川と合流させた。合流部では桂川の澪筋が右岸側へ移され、木津川との合流点が下流へ下げられた。樟葉村(距離標33km)付近では掘削により左岸側にも澪筋が出来、中州が発生した。29km〜30km左岸側の州と止水域は土砂の堆積により消滅し、澪筋が湾曲した。30km〜32km付近には小さな中洲が発生したが、仁和寺村地先から牧野村地先(18km〜29km)にあった中洲群はほぼそのまま存在した。水制は盛んに建設され、100基以上の水制を数えることができた。特に鵜殿村から橋本(31km〜35km)、鳥飼村から三箇所村(20km〜23km)、赤川(11km)付近には水制が密集している。3)淀川下流域部八雲から毛馬(16km〜10km)にかけての湾曲部の整正では16km〜15kmおよび12km〜10kmの両区間では左岸側を引堤するとともに、河道を掘削・拡幅し、14.5km付近〜12km付近にかけては旧河道の右岸堤防が新河道の左岸堤防になるように北側に新河道を掘削し、付け替えた。旧河道と新河道は左岸距離標14.5km付近と12km付近で左岸堤防により締切・分離され、旧河道はしばらく水域として残るが、昭和初期に埋め立てられた。1)長柄から旧中津川に沿って新淀川を開削し、旧淀川締切に毛馬洗堰、毛馬閘門を設け、流量調整、舟運に用いた。新淀川沿いには1909年(明治42年)から1913年(大正2年)にかけて長柄床固め沈床・長柄仮堰・長柄起伏堰が建設され、新淀川への放流流量を調節と常時水位をOP2.27mに設定した。
 この淀川改良工事は淀川の河道形成に重要な意味を持っている。一つはこの時作られた両岸の堤防法線が現在もなおそのまま残っており、淀川の河道の外枠はこの工事により作られたものであることである。もう一つは現存する城北ワンド群と庭窪ワンド群の形成にこの工事が大きく関係していることである。すなわち、城北ワンド群は新しく掘削し、北側に付け替えられた新河道と旧河道の締め切り堤および新河道に建設された水制により形成された。また、庭窪ワンド群は15kmから16kmの引き堤した区間に建設された水制に由来するものである(現在では引き堤区間の水制/ワンドはほぼ失われ、現存するものは引堤区間の上流端付近の図-1(a)当時の水制とその上流側に昭和初期に建設された水制に由来するものである)。また、毛馬洗堰と長柄起伏堰の建設は淀川の水位を平水時は一定に調節するものであり、これにより堰上流部の水深が深くなるとともに流速が小さくなった。また、水質的にも堰上流は完全な淡水域と化し、汽水域は失われ、それ以前の淀川下流の生態系とはかなり異なるものとなったことは想像に難くない。

2.3 1929年(昭和4年)の淀川河道
 淀川改良工事は1910年(明治43年)に完了したが、1917年(大正6年)10月「大正大洪水」(最大流量4620m3/s)、1918年(大正7年)(4320m3/s)、1921年(大正10年)(4400m3/s)と洪水に襲われ、淀川改修増補工事(1917年(大正6年)〜1933年(昭和8年))が行われた。低水工事はその後も継続され、淀川改修補増工事(1907年(明治40年)〜1922年(大正11年))を経て、淀川工事事務所は1960年(昭和30年代前半頃)まで航路維持のための工事を行っていた。
 この間の工事と出水の影響を図-1(c)に見る。本川沿いにさらに多くの水制が建設され、特に、西中島地先付近(右岸10km)に5基、仁和寺付近(左岸18.5km〜20.5km)に約10基、伊加賀村付近(24km〜25km)の両岸に約15基の水制が新たに建設された。図-1(b)と(c)を比較すると、土砂の堆積により低水路が狭くなっている場所が多い(左岸樟葉村付近(33km)では州の左岸澪筋に再び土砂が堆積し、ワンド群ができるとともに左岸側の高水敷と一体化;左岸側23km〜24km、19km〜20km、右岸側16km〜18km、13km〜14kmでは寄洲が発達、水路部が狭まり蛇行が促進し、寄洲と堤防の間等に止水域、緩流水域が発生)。左岸八雲地先(15km〜16km)、毛馬・赤川地先(10km〜12km)では湾曲内岸側の左岸側に堆積が進み、低水路部の湾曲は明治の改修以前の姿に戻った。八雲地先では左岸掘削部に再び土砂が堆積し、ワンド群も形成され、毛馬・赤川地先では築堤の際の土砂採取跡にワンド群を形成された。12km〜13kmの左岸側でも洲の発達が見られ、城北ワンド群が形成されつつある。新たに建設された水制群は湾曲の内岸側に多く建設され、蛇行をより促進する目的を持っていた。

2.4 1947年(昭和22年)の淀川河道
 1929年(昭和4年)以降、1930年(昭和5年)、1938年(昭和13年)(阪神大水害;4000m3/s)、1944年(昭和19年)(4970m3/s)と洪水が襲来し、淀川本川の計画高水流量を1939年(昭和14年)に6950 m3/sに改訂され、淀川修補工事(1939年(昭和14年)〜1968年(昭和43年))が行われた。図-1(c)と(d)を比較すると、東天川付近(28km)の桧尾川の合流部では州が発達し、本川低水路幅が狭くなった。右岸三島地先(26km)、嶋下から嶋上地先付近(20km〜23km)、左岸三矢地先(25km)、仁和寺地先から出口地先(19km〜22km)では寄州が発達し、高水敷きが形成されると共に、水制間に土砂が堆積し、低水路幅が狭くなった。図-1(c)では水制は水面に延び出しているが、図-1(d)では多くの水制が水路と堤防の間の高水敷様の中に描かれ、水制間に土砂が堆積した。平面的には1970年(昭和45年)頃の淀川河道の概形がこの頃に形成された。図-1(d)は6葉の地図の中で最も水制が多く描かれているものであって、淀川低水工事による新しい水制が数多く見られ、特に高槻(距離標27km)より下流に多く建設されている。また、従来少なかった頭部水制(平行工)も表現されており、三方を水制に囲まれたワンドも存在している。城北ワンド群、庭窪ワンド群もほぼ出来上がりつつある。

2.5 1970年(昭和45年)の淀川河道
 1947年(昭和22年)から1970年(昭和45年)の23年間には4000m3/sを越える出水だけでも9回を数え、最大流量も7800m3/sを越えた。そのため新たに淀川水系改修基本計画がたてられ、枚方の基本高水流量を8650 m3/sとし、ダムによる洪水調節を始まった。図-1(e)では低水路内に点在していた中州はほとんどなくなり、寄州は高水敷と一体化した。その結果、河道区間全体で低水路幅が狭くなるとともに、低水路と高水敷がさらにはっきりと区別できるようになり、ゴルフ場等の高水敷の利用も始まった。水制は23kmより下流を中心に多く残っており、150基近く存在した。また、高水敷上を中心に数多くの止水域、ワンドが確認される。これらの成因、経年変化については、図-1(c)、(d)を参照することにより推測され、樟葉のワンド群(No.1〜5)、船橋川と穂谷川の間のワンド群(No.6〜10)は、1929年頃建設された水制間に土砂がたまり、高水敷の中に取り込まれ、ワンドとなったことがわかる。図-1(f)ではNo.6〜10は埋没し、見られない。右岸26km〜27kmに見られるワンド群は本川の右岸側水域に由来するが、1995年には消滅した。

2.6 現在(1995年〜1996年)の淀川河道
 1971年(昭和46年)に淀川工事実施基本計画が改訂され、超過確率は1/200に、枚方地点での計画高水流量12000 m3/sとされた。流量改訂に対応して低水路の掘削、屈曲整正、低水路幅の拡幅、低水護岸の建設、堤防や護岸の補強、高水敷の嵩上げと環境整備、上流部の砂防やダム群の建設等の河道改修工事が推進された。淀川下流部では淀川大堰建設、低水護岸の建設、毛馬水門、毛馬閘門改築が行なわれた。長柄可動堰は淀川大堰に変わったが、常時水位は昭和39年の平水位OP2.45〜2.55に対して約65cm上昇し、OP3.15mとされた。この堰水位の上昇と低水路河道の掘削により堰の背水の影響は枚方付近まで及ぶこととなった。
 図-1(e)図-1(f)の比較より淀川工事実施基本計画による河道の変化を見ると、低水路の掘削・拡張の結果、31kmの牧野付近より下流で低水路の拡幅と整生が進んだ。すなわち、28km〜30.5kmにかけて低水路の拡幅が行われた。枚方大橋上流では左岸にあった低水路を河道の中央に移し、両岸に高水敷を造成した。23km〜25km付近では右岸側に接近していた低水路を右岸側の高水敷の造成と左岸側の掘削によって直線に近い低水路に改修した。21km付近〜23km付近では低水路の拡幅と直線化が行われた。18.5km〜20.5kmにかけては右岸側に高水敷を造成し、左岸側を掘削することにより河道の屈曲を整正するとともに、低水路の拡幅も行っている。鳥飼大橋から鳥飼西(17km〜18.5km)にかけては右岸側を掘削し、左岸側に高水敷をつくって屈曲を整正し、低水路を河道の中央部に付け替えた。八雲地区付近(14.5km〜16.5km)は左岸側が掘削されて河道が拡幅された。毛馬から赤川(10km〜11km)の左岸が掘削により河道の拡幅が行われた。
 これらの工事により図-1(e)に見られた鳥飼大橋から穂谷川合流部(17.5km〜30.5km)に存在した膨大な数のワンド群はほぼ姿を消し、11.5km〜13kmにかけて城北ワンド群、16.5kmから鳥飼大橋下流に存在する庭窪ワンド群のほか、幾つかのワンドを残すのみになった。この工事はワンドの数を激減させたのみならず、その質にも大きな影響を与えた。すなわち、淀川大堰の運用により水位が上昇(1910年当時の淀川湛水位はOP2.27m)し、ワンドの水深が深くなった。低水路の拡幅・掘削により低水路流下能力が上昇した結果、水位の変動が少なくなったばかりでなく、高水敷の嵩上げにより、高水敷(ワンド)の冠水頻度が著しく小さくなった。その結果、ワンドとそれを取り囲む水際帯、冠水帯の面積が著しく減少し、生物相に大きな変化を与えつつある。さらに、水質、底質の悪化も懸念されているのが現状である。
3 結論
 淀川河道は2度の変貌を遂げた。1887年(明治20年)デレーケにより構想され、沖野忠雄により具体化した淀川の河川改修計画は約80年後の1965年(昭和40年)前後に完成を見、淀川河道大変貌を遂げた。すなわち、低水路部は舟運のため澪筋の蛇行、掃流力の確保、水深維持を目的として水制の建設により、低水路幅をせばめ、流砂の堆積による高水敷の形成を待った。洪水に備えては新川が開削されるとともに、河幅の確保、浚渫、堤防の拡築等の改修が行なわれた。1971年(昭和40年代半ば)、この明治の構想が完成した頃、計画洪水流量の大幅な改訂に伴い、淀川河道は2度目の大変貌を遂げた。河川改修の主目標は高水対策であり、低水路の屈曲の是正、掘削、拡幅、護岸と堤防の増強が行なわれ、高水敷の利用推進のため高水敷の整備が行われ、数多くの水制郡とワンド郡は失われた。
 太古より淀川には流水性と止水性の多くの魚種3)が生育し、琵琶湖、旧巨椋池、淀川周辺の湿地、氾濫原内の池沼が止水性魚類の重要な生育地であったことは疑い無い。筆者は淀川河道内に自然に生成したタマリ(止水域)もその重要な一つであったと推測する。すなわち、流砂量が多く、水路幅も広く、水深の浅かった淀川では、至る所に止水域、緩流域が存在したことは想像に難くない。それらは出水に応じて、冠水し、また、場所を変え、止水性魚類や抽水植物群落の生息場となった。明治以降の近代河川改修の中でそのような自然生成のタマリが失われ、取って代わったのが水制群により生まれたワンドではないだろうか。水制により固定されたワンド群もあるが、年に数度の冠水と流砂により水制間の水域(ワンド)/堆積域は堆積と侵食を受けていたことが空中写真より読み取れる。そして、新たな河川改修工事によりその数も激減した現在、残されたワンドは質的にも変わろうとしている。
 本報文で述べたことは河川管理関係者には熟知されていることも多く、記述に誤りもあるかも知れない。また、地形図と公刊資料のみを用いており、より詳しい資料により検証/訂正が必要となる事項もあるであろう。関係各位の御高評をお願いする次第である。河川改修や洪水に関する記述にあたっては一々引用を記さなかったが、大部分は「淀川百年史」「淀川工事事務所管内図」によることをお断りいたします。
参考文献
1) 建設省近畿地方建設局:淀川百年史、1974.
2) 同淀川工事事務所:淀川工事事務所管内図、1996.
3) 矢田敏晃:淀川の魚類相と生息環境、水、第36巻8月号、1994年8月、26ー31.
4) 綾 史郎・斎藤 あずさ:城北ワンド群の変遷、第4回シンポジウム「環境用水の汚濁とその浄化」論文集、
  環境技術研究協会、1997.

5) 福永康彦・斎藤あずさ・綾 史郎・西谷大輔:淀川のワンド群の形成とその変遷、平成10年度土木学会関
  西支部講演概要集、1998.

 

 

図−1 淀川河道の変遷.

図−1 淀川河道の変遷(続き).

付録
 図−2 1887年(明治20年)頃の淀川.

 図−3−1 1873年(明治6年)頃の淀川.

 図−3−2 1873年(明治6年)頃の淀川横断図.



(a)1885年(明治18年)から1890年(明治23年)頃の淀川
(b)1905年(明治41年)から1909年(明治42年)頃の淀川
(c)1929年(昭和4年)から1930年(昭和5年)頃の淀川
(d)1947年(昭和22年)の淀川(31kmより上流は昭和6年)
(e)1970年(昭和45年)の淀川
(f)1995年(平成7年)から1996年(平成8年)頃の淀川



戻る