古代日本の星座の起源


古代中国が起源の星座―星宿

   中国では農業の発達と共に、目立った星や星座は季節の目印として作られ、天体の運行を把握する基準ともされた。『書経』(960-1127年)の『堯典』に、春分・夏至・秋分・冬至の日暮れに南中する星として、それぞれを鳥・火・虚・昴という名の星を挙げている。これらは堯典の四中星と呼ばれ、現代の星座では順にうみへび座α、さそり座α、みずがめ座β、おうし座のプレアデスに対応し、二十八宿につながるものである。二十八宿とは28の星座からなる、天の赤道帯を不等間隔に28の宿に分割した二十八宿という体系付けされた星宿の一部である。堯典は、紀元前2000年頃の天文現象を反映している。多くの星が観測されるようになり、目立たない星からも星座が作られるようになった。五経の一つ『礼記』の月令篇に二十八宿のうち毎月太陽が宿る星座、日暮れと夜明けに南中する星座がそれぞれ記されている。類似の記事は他の文献にも見られ、1938年能田忠亮はそれらを分解し、二十八宿体系の成立を紀元前620 100年頃と推定した。その後1977年に湖北省随県の曾候乙の墓から、二十八宿名が全て記された漆器が出土した。副葬品に紀元前433年にあたる年号が記されていたので、成立が前5世紀末以前であることが確かめられた。

古代中国の地上と天上

 中国の星座はギリシャの星座と異なり、星の配列を具体的に表さないことが多い。天の北極近くの輝星を帝とし、近辺に大使・后・妾・庶子などの帝の一族、周辺に四輔・女史・女御・尚書など様々な役職や華蓋・調度品を置いている。その全体には侍臣と護衛官たちの星の列で囲み、紫微垣(帝の私的な居住宮殿)とする。これらは一年中地平線上に沈まない周極星の範囲にほぼ対応する。
 そのほか、地上世界のあらゆるものが星座にされ、天文・気象や河川・地形、家族・伝説や歴史上の人物、施設、神や鬼なども星座にされている。便所や糞尿、それの臭いを遮る屏風も星座にされ、天上も地上も同じ世界だと見ていたようだ。

日本へと伝わる星座(星宿)

 日本には、古来すばるなどごく限られた星の名は存在したが、独自のまとまった体系はなく、中国の星座がそのまま導入された。キトラ古墳や高松塚古墳の天井に描かれたものは、朝鮮経由または直接伝わったとされる。

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