大学設置基準大綱化後の共通(教養)教育のかかえる問題*1
林 正人
工学部 一般教育科
<2003年 9月30日受理>
Problems of General Education Brought About by the Relaxation of
the Standards for the Establishment of Universities
by
HAYASHI Masahito
Department of General Education, Faculty of Engineering
(Manuscript received september 30,2003)
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*1 工大の教育を考える会講演会(2002 年7 月10 日、大阪工業大学)における口頭発表に加筆・修正 |
Abstract
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The Standards for the Establishment of Universities was made relaxed substantially in 1991. Since
then, each institutions of higher education have been promoting education reform in accordance with
their own basic academic philosophies. Almost all of reform measures at universities, however, seem
to have aimed at improvement of professional education. Consequently, a structural base of general
education has became weak.
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On the other hand, the birth rate in Japan has been declining rapidly so that a variety of students with
diverse educational motivations and backgrounds currently enter universities. Therefore, institutions of
higher education are now in the situation that they must review thier education and research boldly and
establish a new higher education system which can cope with diversification of students.
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Many educational tools, such as a semester system, a credit system, a teaching assistant system, faculty
development (FD) activity, a evaluation of lectures by students, a grade point average and so on, heve
been transferred from the U.S.A. Regretfully, they do not function very well in Japan mainly because of
the diョerence of cultural backgrouds between Japan and U.S.A.
Under these circumstances, individual institutions of higher education must examine closely what
the general education should be and what role they should play in the society. Forther, they have to
make ceaseless eョorts to improve the quality of education for diverse students in accordance with basic
academic philosophy of each institution.
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| 1 はじめに |
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臨時教育審議会(1984 年8 月〜1987 年8 月)の「Univerdity Council」創設提案を受けて1987 年9 月に創設された大学審議会は、2000 年12 月に廃止(*2)されるまでに
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- 教育研究の高度化
- 高等教育の個性化
- 組織運営の活性化
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に向けた一連の答申を行ってきた(資料1、2 参照)。中でも1991 年2 月に出された答申『大学教育の改善について』は、全国の大学に改革をせまる、きわめてインパクトの大きなものであった。
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実際、この答申を受けて大学設置基準が1991 年6 月に改正され(施行は1991 年7 月)、一般教育と専門教育の区分、一般教育内の科目区分(一般(人文・社会・自然)、外国語、保健体育)が廃止された(大綱化)。これにより、各大学は4 年間の学部教育を自由に編成できるようになったが、その一方で、教育研究活動について、大学自ら点検および評価を行うことが求められた。
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この設置基準の改正を契機に、
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- 教育組織の改革
- カリキュラムの改革
- 教育方法の改革
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等、新制大学における初めての大きな改革が、全国規模でスタートした。特に、一般教育と専門教育の区分廃止のもたらした影響は大きく、一般教育課程ないし教養部の改組・解体が多くの大学で進行した。そして、設置基準大綱化の5 年後には国立大学の教養部・一般教育課程はほぼ姿を消した。
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大綱化以降の大学教育改革は、専門教育を中心とした学部教育の編成へと進み、結果として教養教育が軽視される風潮を生んだ。しかし、それは大学審議会が期待していたものとは全く異なる方向であった。大学の自主性を尊重するあまり、答申の内容が抽象的で、具体的な改革の指針を示せなかった点に問題があったことは否定しがたいが、教養教育を担当してきた教員の中にすら、教養教育を重視する理念が欠落していたことにも問題があった。
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こうした大学改革の流れをみた大学審議会は、1998 年10 月に答申『21 世紀の大学像と今後の改革方策について』を出した。この中で、「教養教育が軽視されているのではないかとの危惧がある」と問題点を指摘し、「教養教育の重視、教養教育と専門教育の有機的連携の確保」が重要となるとの展望を示している。
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そして、教養教育の理念は「学問のすそ野を広げ、様々な角度から物事を見ることができる能力や、自主的・総合的に考え、的確に判断する能力、豊かな人間性を養い、自分の知識や人生を社会との関係で位置付けることのできる人材を育てること」であるとし、その実現のため、「授業方法やカリキュラム等の一層の工夫・改善、全教員の意識改革と全学的な実施・運営体制を整備する必要がある」と述べている。
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更に、教育方法の改善に関して、授業設計、教員の教育責任、成績評価方法、履修科目登録の上限設定、教育内容、授業方法、教育評価等に踏み込んで具体的な提言をしている。各大学の特色を生かした自主性を尊重すると強調する一方で、このような具体的提案を掲げることは矛盾していると、各方面から批判が寄せられた。しかしながら逆に見れば、当時の大学教育の状況は、大学審議会が1991 年の大綱化答申を出した当時期待していた「教養教育重視」の方向からは、全くかけ離れた状況にあったことを意味するものと解釈することもできよう。
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実際には、その後も状況に十分な改善が見受けらず、2000 年11 月に『グローバル化時代に求められる高等教育の在り方について』との答申が出された。その中で、「平成3 年(1991 年)の大学設置基準等の大綱化以来、多くの大学でカリキュラム改革が進んでいるにもかかわらず、教養教育の取り扱い方についての学内の議論が十分でなく、教養教育が軽視されているのではないか、あるいは、このような状況と進学率の上昇に伴う学生の能力や適性の多様化などが相まって、大学生と大学卒業者の教養の低下が進んでいるのではないかとの危惧の声がある」、「グローバル化が進展する中では、世界を舞台にして活躍し社会で指導的な役割を果たす、深い教養と高度な専門性に裏付けられた知的リーダーシップを有する人材が求められる」、「新しい時代の教養とは何かを問い直し、これを重視する方向で学部教育の見直しを検討することが望まれる」等の指摘をし、教養教育を重視した新しい大学教育の方向性を、より明確な形で打ち出している。
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また、大学で教養部が解体され、教養(一般)教育が軽視されるのと同時に、高等学校では科目の選択制が進み、学力・教養レベルの低下と多様性が生じてきたのである。皮肉なことに、大学で教養教育の強化が求められる時代に、それを担う教育体制が弱体化してしまったのである。実際、中央教育審議会は2000 年12 月に『新しい時代における教養教育の在り方について』の審議をまとめ、高等教育のみならず初等・中等教育まで含めた教養教育に関する提言を発表している。
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理想的な学部教育とはいかなるものなのか、各大学で議論され、具体的な試みもなされてはいるが、進むべき方向自体明確とはいえない状況である。現在約150 万人である18 歳人口は、平成21 年(2009 年)には120 万人程度にまで落ち込み、逆に現在約50% の大学・短大への進学率が60% 近くにまで上昇し、ますます学生の多様化・大衆化が進行するとの予想が大学審議会から出されている(『平成12 年度以降の高等教育の将来構想について』1997 年1 月答申)。一方、専門分野の教育内容は高度化し細分化された結果、学ぶべき内容は年々増加している。従って、今後は学部教育では基礎教育を含めた教養教育が重要となり、高度な専門教育は大学院へシフトせざるを得ないであろうことは、疑いようがない。
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尚、大学における教養教育とは何か、また如何にあるべきかについては、多くの議論があるところであるが、本稿では、従来の一般教育に相当するリベラルアーツ教育を念頭に置いている。但し、初等・中等教育の場で「ゆとり」を重視した教育内容の先送りがなされ、高等学校では「個性」を尊重するためとして履修科目の選択制が拡大されている。そのため、いわゆる”読み書き算盤”的な基礎教育が、高等学校までの段階で十分にはなされてはいないという現状を十分認識しておく必要がある。今後は勉学の基礎となるスキルの習得に関しても、教養教育の中で手当てしてゆく必要があろう。
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更に、2004 年4 月から国立大学が独立行政法人へと移行する。既に、各大学の最初の6 年間の中期計画・目標もその素案が一部公開されている。生き残りをかけたサバイバルゲームに突入してゆくのではとの推測もある。当然公立・私立大学もその影響を受け、日本の大学全体が大きく変貌せざるを得ない激動期になると考えられる。しかしながら、大学改革は誰も経験したことのない未知の領域へと踏み出すわけで、将来のことを今予測するのは不可能である。今後の動向を注意深く見守りつつ対処してゆく必要がある。
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本稿では、これらの点を踏まえて、現時点における大綱化以来の問題点を教養教育の観点から整理し、今後我々が進むべき道を切り開いてゆく際の手がかりとしたい。
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*2 2001 年1 月以降は、中央教育審議会の中の大学分科会として位置付けられている
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2.2.3 教育方法の改革と問題点
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教育組織・カリキュラムが改革される一方、主にアメリカを手本にして教育方法の改革も進められた。
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セメスター制度
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多くの大学・学部においてセメスター制度が取り入れられているが、ほとんどの場合、従来の通年授業を前期・後期に分割した形式的なものにとどまっている。しかし、セメスター制度の元々のねらいは、短期間に集中して完結させる教育を行う点にある。従って、週1コマ通年で講義された内容であれば、週2コマ半期で習得させるというのが本来のセメスター制である。
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現実に、アメリカの大学では短期集中という形態が徹底しており、学生は講義期間中には勉学に専念しなければならない。授業の進展も速いし、課題も多い。当然、同時期に並行して履修できる科目数は限られる(5 〜6 科目というのが平均的)。一方、教員も講義期間中には教育に専念せざるを得ない状況となる。毎回の授業に合わせた課題を的確に指示し、学生が自主的に勉学を進められるように配慮しなければならない。
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このように、教員と学生がお互いを拘束しあう形で教育効果を高めることがセメスター制度の意義である。残念ながら、日本ではそのような認識は希薄で、ほとんどの授業が週1 回のペースで進み、学生は同時に10 数科目を履修しているというのが現状である。
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単位制度
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日本の大学は単位制度を基にしている。大学設置基準第21 条には、「1 単位の授業科目を45 時間の学修を必要とする内容をもって構成することを標準」との1 単位の基準が記載されている。ここでいう45 時間というのは、月曜から金曜まで1 日8 時間、土曜5 時間とした1 週間の学修時間である。
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この1 単位45 時間の内訳として、旧設置基準では、講義科目1 単位は15 時間の教室内における授業と30 時間の教室外における自習、実験・演習科目1 単位は30 時間の教室内における授業と15 時間の教室外における自習で構成されるとして規定されており、特に講義科目は授業の2 倍の時間を予習・復習等の自習に当てることが求められていた。実際、アメリカでは教室外での学修内容について、教員が明確な指示を出すことが求められている。
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しかし、設置基準第21 条では1 単位の標準を規定したものの、授業科目の単位数は、各大学において定めるとし、「講義及び演習については、15 時間から30 時間までの範囲で大学が定める時間の授業をもって1 単位とする」等の基準を示すにとどまっている。その結果、ほとんどの場合、講義科目は半期(13〜15 週)2 単位となったが、講義以外に教室外での自習時間が前提とされていることがいつしか忘れ去られ、1 単位に相当する学修時間は標準の45 時間を大きく下回ることとなった。
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卒業に必要な単位数が概ね120 単位程度であるのも、本来、半期15 週では15 単位分の履修が標準だからである。近年、履修登録単位数に上限を設ける大学が増えてきているが、半期15 週で15 単位を大きく上回る単位を容易に取得できるとすれば、単位の設定に問題があるといわなければならない。教室外での自習を含めた講義計画を策定し、その上で学生の学修時間に見あった単位配分を考え直すべきであろう。
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TA 制度
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TA (Teaching Assistant) の制度も多くの大学ですでに取り入れられ、実施されている。しかし、彼らの役目は、多くの場合、実験・実習の補助である。教員の労働力の代替という、TA を使う教員側の便宜を図るための制度であるとの認識が支配的である。
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しかしながらアメリカでは、TA のためのトレーニングプログラムが組まれ、学生の指導のかなりの部分まで分担することを求められる。TA とは、将来大学教員になるための訓練の場であると考えられているのである。そのため、TA を担当する大学院生は、TA をすることにどんな意味があるのかを担当教員から繰り返し確認されながらTA の仕事をこなしていくことになるのである。
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TA を使う教員は、学生の指導と同時にTA 自身を教育という観点で指導するとの認識が、日本では欠落している。研究重視の日本の大学の特性が、ここにも如実に表れている。
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FD 活動
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FD (Faculty Development) 活動は、すでに多くの大学で実施されており、センターを設置して熱心に取り組む大学もある。具体的には、講演会・研究会や新任教員のための研修会、教員相互の授業参観、授業アンケート等が実施されている。しかしながら、なかなか具体的な授業改善にまで至らないと言うのが現状であろう。
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初等・中等教育機関の教員になるためには、教員免許を取得する必要があるが、大学の教員になるにあたっては、何の免許も必要ない。学生が自ら進んで勉学に励むならば、大学教員には専門知識が十分にあればよいとも言えるかもしれないが、今日のごとく大学が大衆化し、必ずしも勉学意欲の高くない学生が増えている状況においては、大学での勉強の仕方から指導する必要もあるし、場合によっては、大学で勉強する意義について説明し、学生自身に考えさせることが必要となることもある。
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このような現実を考えれば、教員個人の力での授業改善には自ずと限度があることは明白で、組織的なFD 活動への取り組みが必要であるといえる。
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授業評価
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すでに多くの大学で、学生アンケートに基づく授業評価が実施されている。しかしながら、これを教育改善に積極的に活用しているところは少ない。これは、学生にまともな授業評価ができるのか、人事評価に流用されるのでは等、教員側に不信感が根強いためと思われる。又、教育・学問の自由に対する侵害ではないかとの意見もある。
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確かに、学生が回答するだけで終わってしまう一方通行のアンケートには、いろいろな問題がある。しかしながらそこには、授業改善を目的として学生アンケート行うのだ、という意識が欠落している。学生側の意見をふまえて、彼らの正当な批判は真摯に受け止め、改善してゆかなければならない。しかし、彼らが誤解している部分に対しては、もう一度授業の目的を含めてきちんと説明し、理解させるよう努める必要がある。
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その意味で、アンケートを継続して行って授業改善を図るとともに、その都度結果を学生にフィードバックすることが重要である。そして、この一連のプロセスを通じて、学生に授業への参加意識を芽生えさせ、ひいては批判的精神を育むことにもつながるとの認識を持つことが必要である。
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GPA 制度
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GPA (Grade Point Average) は、学生の成績評価の尺度としてアメリカのほぼ全ての大学で導入されている。日本ではまだ導入されているところは少ないが、成績を0、1、2、3、4、の5段階に点数化し、平均したものである。不合格(成績0)も含まれるところに特徴がある。一度登録したら、真剣に取り組まなければならない仕組みである。
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通常、GPA が2 未満となると学修に問題があるとして、指導を受ける。その後改善が見られない場合、退学を勧告される場合もある。一方、GPA が例えば3.5 以上ならば、次のセメスターで履修科目数を増やすことが認められる等の特典が与えられる。奨学金制度と連動していることもあるし、社会的評価として用いられることもある*4。
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但し、この制度は学生を半ば強制的に授業に拘束するものであるから、個々の学生に対してきめ細かな履修指導を行い、事前に授業内容を周知させる等のケアが不可欠である。
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*4 GPA を自動車保険の割引率に反映させる保険会社もある
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| 3 日本の大学と米国の大学 |
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前節でまとめたように、大学設置基準の大綱化以降の大学改革は、目に見える形での成果を上げているとは言えない。アメリカで機能している教育システムでも、文化や風土が異なる日本では、そのままの形ではうまく働かないということであろう。ここで、日本とアメリカの大学の差異をみてみよう。
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アメリカの大学
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アメリカにおける大学教育は、知識人としての基礎的素養を修得することを目的とした教育機関としてスタートした。当時の大学教員は、学生の「人間形成」のために働くいわば雇われ教師であり、強大な権力を持つ校長のもとで、『教育』に専念していた。
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大学教員の重要な役割として『研究』が広く一般に認知されるようになるのは、19 世紀後半から20 世紀にかけての頃である。しかし、大学教員の果たす役割として研究の重要性がすんなりと受け入れられたわけではない。大学教員達は、研究者としての位置付けを、闘争の結果として戦い取ったのである*5。そして、教育と研究との統合の場として大学院制度が作られた。
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現在においても、専門知識を学ぶ以前に、一人の人間として幅広い教養を身につけ、豊かな人格を形成する場としての役割が大学に求められている。4 年一貫した高度な教養教育を展開するリベラルアーツ・カレッジは、このような要求に応え、アメリカにおける大学教育の伝統を継承している。
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カーネギー教育振興財団が1992 年から93 年にかけて14 ヶ国の大学教員を対象に実施した「大学教授職国際調査」によると、教育活動と研究活動のどちらにより関心があるかとの問いに対し、アメリカでは49.2 %が教育活動と答えている。日本の大学教員の場合は、教育活動と答えたのは、27.6 %である。(全体の平均は40.1 %)
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また、アメリカの大学だけを対象とした別の調査では、リベラルアーツ・カレッジでは、実に9 割の教員が教育を重視すると答えている。一方、ハーバードやスタンフォードに代表される、研究を主体とする100 校程度の大学(リサーチ・ユニバーシティ)の場合には、全く逆で、8 割の教員が研究を重視しており、アメリカ全体の3000 余りの高等教育機関で平均してみると、約7 割の教員が教育を重視するとの態度を示していると報告されている。つまり大学といっても、個性があり、その目的に応じて棲み分けているのである。
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*5 当時のアメリカの大学では大学革命が起こったのだと評する人もいる
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日本の旧制大学
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戦前の日本の大学は、ドイツの大学をモデルとしており、学問の府・研究の場である専門教育の機関であった。その数は、多いときでも約40 校で、自治権が保証される選ばれたエリートの集団であった。一方、高等教育の場としては、旧制高校・専門学校・師範学校等があっが、これらの機関には教授会組織もなく、人事権は文部省が握っていた。
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このような状況であったため、『研究』に対して『教育』を一段低く見る風潮が形成されていった。教養を重視し、人間形成を目指すリベラルアーツ教育の理念は、戦前の日本の大学には無かったのである。
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日本の新制大学
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戦後、アメリカの大学をモデルとして、大学制度の大改革が行われ、高等教育機関は全て大学へと再編・統合された。その際の理念は、学部では教養教育を重視したリベラルアーツ教育をおこない、大学院で高度な専門教育・研究をおこなうというものであった。
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しかしながら、日本の旧制大学にはリベラルアーツ教育というものは無かった。又、実質的にリベラルアーツ教育を行っていた旧制高校等の教員は、大学教員へと昇格したことにより、教育よりも研究を重視するように意識を変えなければならない状況になったと考えられる。その結果、全ての新制大学が戦前の帝国大学型の研究を主体とする方向を目指し、旧制高校等にあった教育の伝統は失われた。
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但し、旧設置基準においては、一般教育が義務づけられ、保証されていた。そのため、教育を軽視する風潮の中においても、一般教育は大学教育の中で生き続け、一定の役割を担ってきた。しかしながら、設置基準が大綱化され、一般教育と専門教育の区分が撤廃されたことにより、一般教育はそのよりどころを完全に失い、崩壊してしまった。日本の大学がたどってきた道を振り返ってみれば、一般教育の崩壊は、必然であったとも言えよう。
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