近年思うこと -途に迷える学生へ-

知的財産専門職大学院 
教授 高島 喜一

高島 喜一
 十年ほど前の正月、雪の降りしきる中を時速50km以上で車を走らせているとき、カーブで積雪にハンドルを取られ、危うく死にそうになったことがあった。道の脇には幅約1mの側溝が走っていたが、制御不能の車が、偶然に、そこ以外の前後100mには存在しない鉄板の上を滑って田圃に滑り込み、助手席に座っていた老母共に事無きを得た。その鉄板の幅たるや、カーブしたときに4つのタイヤの描く互いに異なる軌跡のうち、3本をかろうじて受け止め、1本は宙に浮いている幅であった。そのとき以来、私は般若心経を覚え、家で唱えてから出勤することにしている。

 般若心経の中には有名な「色即是空 空即是色」がある。「存在するものは、実は空である」とする前半は「沙羅双樹の花の色」でも分かるとおり理解しやすいが、「空なるものは、実は存在している」とする後半はその意味がしっくり来ず、その後に続く「不生不滅」と相まって、エネルギーの海に生成・消滅する粒子と反粒子、死んでいく動植物も見方を変えれば遺伝子の単なる乗換作業なる類の、時間を圧縮若しくは超越できる観音菩薩や、沙門悟浄が感嘆する「いつも永遠を見ていられる」三蔵法師の教えか、あるいはせいぜいがモーツアルトの作曲方法くらいに思っていた。

 その数年後の春、桜を観たときのことである。桜は吉野ならずとも路傍の一本でも家路を忘れることがあるが、惜しむらくは静心なく散り急ぐことであり、「世の中に絶えて桜のなかりせば」と嘆かれる。そのとき、この歌には返歌があると高校の授業で習ったことを思い出し、それを看て愕然とした。

 散ればこそ いとど桜は めでたけれ 憂き世になにか 久しかるべき

 散るからこそ桜は尊いと詠うこの和歌は、「色即是空」に対する「空即是色」ではないのか。空なるべきものには、それが故に、実体がある。色ならざるものには色がある。

 近年、篠懸樹の影行く学生の眼蓋を見るにつけ「善萬物之得時」者は、思うことがある。天は偶然を介してしか真実を語らない。所詮は偶然に当学部・大学院を選択した者は、それを一生における必然・天命の時と腹を括り、当に勉励して我が身に「知的財産」を稔らせる秋(とき)とすることこそ「空即是色」ではないかと。

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